お知らせ

2020年10月16日(金)

準備中

私の診療所から、自動車で10分も走ると、そこはもう広々とした田んぼが広がっています。「広々と」と言ったのは、本当に広々しているからで、見渡す限りずっと田んぼです。そこにディズニーランドでも飛行場でも建設できるほど、広々としています。

今日現在、その田んぼの半分くらいは稲刈りがとっくに終わっている、という状況です。そしてその刈り取られた稲の切り株からは、新しい芽が生え、それが成長して、今は既にそれが30~40cmの稲となって、青々と茂り、一面がふさふさとした草原のように見える田んぼもそこここにあります。

このような風景は、子供の頃には見たことがありません。きっと稲刈りの時期が、昔に比べて早まったからなのかもしれません。でも、埼玉で暮らすようになったこの20年くらいは、晩秋の田んぼが草原になっている図というのを見続けてきましたから、特におかしいとまでは思いません。

「実った稲の穂からこぼれ落ちた稲の種子が、気候がまだ温和なので、発芽したのだろう。稲の子供たちなんだろう。」

くらいに漠然と思って見ていました。しかし今日、ふと気になって、その切り株の新芽について調べてみました。するとそれは、「新らしい株」ではなくて、刈り取られた株がまだ生きていて、そこから新しく葉が出たものだということが判明しました。つまりそれは子供ではなくて、再生された自分自身だったのです。

このように切り株から再生して芽生えてきたモノのことを、「蘖(ひこばえ)」と言うそうです。私が見ていたモノは、稲の蘖だったのです。稲の蘖のことを特に、穭(稲孫)と呼ぶのだそうで、これは「ひつじ・ひつち・ひづち」と読みます。「二番穂」、「穭稲(ひつじいね)」、「穭生(ひつじばえ)」とも言うのだそう。稲刈りのあとの穭が茂った田は、「穭田(ひつじだ)」。

私たち日本人は、稲や米との結びつきが強いため、稲に関する言葉も豊富なんですね。刈り取られてもまた生える。「蘖(ひこばえ)」や「穭(ひつじ)」という言葉には、自然の逞しさ(たくましさ)が感じられます。

「カンボジアでも穭田(ひつじだ)が見られる?」

「うん。もったいないからそれを牛に食べさせてるところもあるね。」

マンちゃんに日本語を教えることは、私自身が日本語を知ることであり、私自身が前向きになることでもあります。