この夏は、人と会ってはいけないということでしたので、知床の原生林を歩いてみることにしました。知床の原生林は広大ですが、そのほとんどは立ち入り禁止となっていて、私たちが探索できるのは、半島の根元の辺りの、つまり市街地に近接しているごくわずかなエリアなのだそうです。案外な心持ちにはなりますが、それでも「わずか」とは言え、素人が無計画に歩き回ればたちまち迷子になってしまうでしょう。北海道にのみ生息しているヒグマと鉢合わせになる恐れもあります。そこで知床の自然を知り尽くしたツアー・ガイド、岡崎義昭さんに案内をお願いしました。
「原生林」という言葉から、私は童話に出てくるような、少し暗いけれど静かで素敵な世界をイメージしていました。ヘンゼルとグレーテルの絵本に描かれているような、森を。ところが、実際に訪れてみると、そんなメルヘンチックな世界とは大違いでした。動物と植物が、熾烈な生存競争を繰り広げている、いわば「戦場」でした。絵はがきや絵画のような美しさというよりは、なりふり構わず生きていこうという、生物の力強さが、胸に迫ってくる場所でした。・・・と言えば聞こえがいいですが、つまり、かなり荒れ果てた景色が広がっていて、おやおやと思わずにはいられませんでした。
多くの木の幹には、ヒグマの爪痕が残されていますが、手頃な太さの木であれば、その爪痕が木の上の方にまで点々と認められます。それでヒグマがその木の上の方にまで上っていったことがわかります。エゾシカは、木の皮や、若い木の先端を食べます。木は、幹の表層にある道管から水を吸い上げていますから、エゾシカに木の幹の表層を一周ぐるりと食べられてしまうと、それだけで枯れてしまいます。森のアチコチに朽ち果てた大木があるのはそのためです。一方、これから大木になろうと生えてきた若木も、その先端を食べられてしまえば、それ以上成長することは出来ないのだそうです。
キツツキをはじめとする「ケラ」と呼ばれる鳥の仲間は、木の幹を遠慮会釈なくつついて、大きな穴を開けてしまいます。大きな穴の奥に、更に別の種類のケラが来てもう一段穴を開けてしまう場合もあるそうです。木は、穴を開けられると樹液を出して修復を図ろうとします。しかし修復が間に合わず、その穴からシロアリなどの昆虫が入れば、木はあっけなく倒れてしまします。岡崎さんは、このように原生林の1本1本の木を指し示して説明しながら、一歩一歩森の奥に、私たちを導いていってくださいました。そして、いつしか森を抜けると、私たちは垂直に切り立った、断崖絶壁の上からオホーツク海を眺めることになります。
海から強い風が吹き上げてきます。振り返れば知床の山々も見えます。今、通ってきたばかりの森は、ただこんもりと緑をたたえるばかりで、何食わぬ顔をしていました。